1981年(昭和56年)のゲーム史。
アーケードの熱気は冷めやらず、家庭用ゲームは“選べる時代”へと踏み出しました。
この年、日本では業界団体「JAMMA(日本アミューズメントマシン協会)」が発足し、ゲームセンターが“遊技場”から“産業”へと認識を変えられていきます。
一方アメリカでは、アタリが売れすぎたゲームの供給に追いつけず、ついには“とりあえず箱だけ出荷”という、なかなか斬新な流通戦略を披露。
RPGの源流『ウルティマ』『ウィザードリィ』がPCで産声を上げ、ジャンルの地殻変動も始まりました。
そして、任天堂の“ジャンプマン”がドンキーコングに挑み、家庭では“きこりの与作”が木を倒し、ポケットの中ではミッキーが動き出します。
1981年は、ゲームが“操作するもの”から“記憶に残るもの”へと変わり始めた、そんな年でした。
グラフィックアドベンチャーの原点。
アメリカのシエラ・オンラインが発売した『ミステリーハウス』は、白黒線画による洋館の描写とテキスト入力を組み合わせた、世界初のグラフィックアドベンチャーゲームです。視覚と想像力が交差するこの形式は、後の『キングズクエスト』や日本の『ポートピア連続殺人事件』にも影響を与えました。
“捕らえられて強くなる”という逆転の発想。
『ギャラガ』は、敵に捕らえられた自機を救出することで“デュアルファイター”に変化するという成長要素を導入しました。シューティングゲームに“強化”という概念を持ち込んだこの構造は、以後のジャンル設計に大きな影響を与えます。
横スクロールと燃料管理が生んだ“進み続ける緊張”。
『スクランブル』は、横スクロール型の連続ステージ構成を採用したシューティングゲームです。障害物を避け、敵を撃ち、燃料を補給しながら進み続ける構造は、プレイヤーに“止まれない”緊張感を与えました。『グラディウス』など後続作品の原型とも言える存在です。
“交換できる”という体験が家庭に届いた。
エポック社の『カセットビジョン』は、国内で初めて成功したカートリッジ交換式の家庭用ゲーム機です。CPUをソフト側に内蔵するという独自構造を持ち、価格は13,500円。『きこりの与作』『ギャラクシアン』『パクパクモンスター』など、アーケードの記憶を家庭で再現するタイトルが揃いました。
“ジャンプマン”と“ヒロイン”が生まれた。
『ドンキーコング』は、任天堂が開発した固定画面型のジャンプアクションゲームです。プレイヤーは“ジャンプマン”(後のマリオ)を操作し、ヒロインを救出するために上へ登っていきます。敵キャラ“ドンキーコング”との関係性や、ステージごとの演出が、ゲームに“物語”を持ち込むきっかけとなりました。
最大4人同時プレイが可能なバラエティゲーム。
『ビッグスポーツ12』は、テニスや射撃など複数の競技を収録したカセットビジョン用ソフトです。別売りの光線銃を使えば射撃ゲームも楽しめるなど、家庭用ゲームにおける“多人数プレイ”と“周辺機器連動”の可能性を示しました。
ポケットの中に“ミッキー”がいた。
『ゲーム&ウオッチ』シリーズはこの年、『エッグ』『マンホール』『ヘルメット』などのオリジナル作品に加え、『ミッキーマウス』『ポパイ』といったライセンス作品も登場しました。任天堂はディズニーとの契約を通じて、携帯ゲームにキャラクターの力を導入し、遊びに“顔”と“親しみ”を与えました。
1981年は、ゲームが“操作”や“表示”だけでなく、“選ぶ”“覚える”“好きになる”という感情の入り口を増やしていった年です。
家庭ではカセットを差し替え、アーケードではキャラクターが名前を持ち、携帯機ではミッキーが画面の中で動いていました。
遊びは、ただの反応ではなく、記憶に残る体験へと変わり始めていました。
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